日記的雑記帳「カイエ」|2025.09.15-09.21

09.15(月)

・古い物を直す、掃除する技術がほしい。そういう機会が増えてきてやっているけど、汚れはなかなか落ちないものだった。マーベルドラマ『アイアンハート』を観ていたら、「物を知るには分解して組み立て直すこと。そうすると本質がわかる」という話が出てきた。ほんとにそうだろうなと思う。「わかる」と切り分けていくのではなく、現象を分化して、再構築していくことで生まれてくるものを見てみたい。

・「できることがある」というのは、相対的な指標だよなぁ。誰かを「できない」と規定する見方であるから、そもそもを問い直したい。

09.16(火)

・最近、AIへのプロンプトというか、口調がどんどん雑になってきている。今朝も解決したい問題があったが、思い通りの回答が得られず、「あぁもう全然わかっていない」と腹立たしかった。『生成AIに「〇〇教えてください」と聞くのやめない?』というブログを発見したので、読んでみる。確かにAIに教えてと聞いていたし、前提を共有せずに早急に答えばかり要求していた。改めて考えてみると、要領の良い回答が得られるはずがないと思った。定期的にAIとの付き合い方は点検が必要なのだと感じた。

・貸していた本が、わりとくたびれた状態で返ってきた。でも、悪い気はしなかった。自分の手元にあったら、ほとんど綺麗なままで保存されていたかもしれないが、旅をして、また巡ってきたことが感じられるくたびれ方だった。時間の経過を感じられるのはおもしろい。電子書籍の方が好きだが、紙の本は貸し借りできるのが良い。

・我が家にて、自分だったら絶対に寝転ばない場所で寝ている人を見て、猫丸出しだと思った。

・ゆっくり読み進めていた、小倉快子『私の愛おしい場所 BOOKS f3の日々』を読み終わった。澄み渡る”さみしさ”のある本だった。書店を1人で開き、閉じていくまでの日記と文章。1人の店主の断片的な人生がそこにはあった。読み直していた、宮地尚子『傷を愛せるか』に通じる部分もあった。「傷がそこにあることを認め、受け入れ、傷のまわりをそっとなぞること。身体全体をいたわること。ひきつれや瘢痕を抱え、包むこと。さらなる傷を負わないよう、手当てをし、好奇の目からは隠し、それでも恥じないこと。傷とともにその後を生きつづけること」(宮地尚子『傷を愛せるか』)。店を閉めたことを「傷」だと外側から判断したいわけではなく、自分が感じた「澄み渡る”さみしさ”」とは、そういった傷のまわりをそっとなぞるような印象を抱いた。最近、よくさみしいと感じる。空虚さを抱く。だが、そういった”さみしさ”は、安住したいわけではないのだが、さみしさを感じられること自体を豊かに思えるときは確かにある。自分にとっての傷は深くみっともないものだった。そういったとき、こうした本に触れると、傷の良し悪しではなく、周縁に存在するものを不在のままにしないでいられる。誰かが携えていた営みの断片を受け取ってみると、自分もこうした本を作ってみたいと思えた。

09.17(水)

・家の前の道路に生えていた雑草をようやく抜いた。虫除けも散布。庭は業者に雑草の処理やその他諸々綺麗にしてもらう予定だったが、途中のまま2ヶ月以上経ってしまっている。連絡が途絶えて心配していたが、一度連絡があり、体調不良で倒れて作業できなかったとのことだった。そして予定日を教えてくれたが、結局その日も来ずに、もうすぐ1ヶ月経つ。費用はオーナー持ちでやってもらっているし、体調不良だとわかっているから、交渉しても仕方がないしなぁと思うが、放置されている庭を見ると、早くなんとかしたくなる。

・撮ってきた写真をテーマを作ってまとめるなど、そもそもおかしな話かもしれない。その上でどうしようかという感じだろう。

09.18(木)

・人生で初めてレジ打ちをした。早速、五千円札と一万円札を見間違えるミスをした。どんな目をしているんだ自分はと、流石にそこそこショックだった。でも、レジ打ちをしていると人間らしく振る舞えているようで、ちょっとうれしい。

・写真家とはアート的な表現の人ではなく、世界を分解して再構築して見せるという立派な職業である気がする。写真家でありながらビジネス一辺倒でもなく、職業として何ができるのかを探ってみたい。

・写真において関係性を示唆する。あえて残す。そういうこともあるのか。

・生き急いでいるのだろうか。写真は時間を緩める。そこに生き方も含まれている気がする。

09.19(金)

・「書店を始めたらどうなるか」という思いつきを話し合って、盛り上がった。どこで読んだかは忘れてしまったが、独立系書店の店主が「実際は薄利多売の商売でとても厳しい。けれど、本が好きだから書店をやるぐらいの気持ちで商売が成り立つ社会であってほしい」といった趣旨のことを書いていて、頭に残っている。シビアさを知る人がそう考えているのだと知れたことが、なんだか嬉しかった記憶がある。

・わりと硬めの本を読んでいると、「(とある物の値段に対して)馬鹿高い」という言葉があったのだけど、急に乱雑な言葉で笑えた。校正ミスなんだろうか。

・肩の力の抜き方を覚えたい。

09.20(土)

・ゆっくりというか、人生を急かされていない感じ。

・都内までの電車の中で、三砂ちづる『心の鎧の下ろし方』を読み終わった。「前の世代が、あれも怖いこれも怖いあれは危ないこれにはこんな危険がある……というようなことばかり述べて怖がらせることは、のちの世代への励ましにはならない。 なんとか希望の言葉で語りたいものだ、と思っていた」と書かれていて、自分がもし若い世代と話すなら、何を伝えようとするのだろうと思った。複雑なものを複雑なまま捉えて、長い目で見れば絶対になんとかなると言えるようでありたいと思うかもしれない。最近は読んでいて嬉しくなる本が多い。

・する理由もあるし、しない理由もたくさんあることって、よくある気がする。

・帰りの電車の中では日記屋月日で買った、ヤグチリコ『点点 4号』を読んだ。読んでいると、「むくむく」とした気持ちになった。良い作品に触れると、それに対する自身の応答が生まれてきて、豊かさの階調が広がっていく感覚がある。日頃から「責任なんて持ちたくねぇ〜」と思っているが、責任(Responsibility)には応答(Response)が含めているのだとすると、そう思うことは応答したくないということなのだろうか。いや、応答してみたいと思う。自分が今まで捉えてきた輪郭よりも、責任は簡単であり、既に存在しているものなのかもしれないと思えた。

・深夜に文章を書いていたら、今の時代にGReeeeNの『キセキ』を大声で歌って家の前を通る人がいた。懐かしい、同世代じゃんと思いつつ、単にうるせぇとも思った。

09.21(日)

・死について考えた。たとえば目の前の人が「死にたい」と言って、自分は「死んでほしくない」と思ったとしたら、おそらくそれは何よりも自身が耐え難いということなのかもしれない。怖い。とても無理だ。耐えられない。美味しいご飯をたくさん食べて、豊かな人生を長く過ごしてから安らかに逝ってほしい。それは最早、誰のためなのだろうか。きっと誰かのためという問い方ではないのだろう。生きているからといって、さみしさは消えない。だからといって、さみしさについて考えることは、意味がないわけではない。わからなさに直面したとしても、聞き続けることはできるのだと思いたい。

・最近、ちゃんと秋っぽい気候で、「ほんとに良いの?」と疑心暗鬼になっている。例年の日本の夏は10月初旬まででそこからすぐに冬が来るはずではなかったか。こんなに良い気候で良いのか。

・散歩しながら話して考えたこと。自分は誰かが書こうと思って書くこと自体をすごく良いと思っている。そう思えることは稀有なことなのかもしれない。だとしたら、それをなんとか育ててみたい。