日記的雑記帳「カイエ」|2025.11.24-11.30

11.24(月)

・循環。風の通り道。一軒家を借りてみて思ったが、空気の通り道を作ることで、家が呼吸しているように思える。今の時期は換気をすると寒いのだが、空気を入れ替えてあげることで、なんだか過ごしやすくなる。

・さみしさ。大概の人が怒っているのは、自分がさみしかったんだということだったりする。それはなんら恥ずかしいことではないし、素直にさみしかったと言っていいんじゃないか。

・スペインはパエリアと置き引きの本場だもんねって笑った。そのとおり。

11.25(火)

・真摯に説明するって大事だなぁ。

・何かをやることって、わからないからやるという部分があると思っていて、特に最近はそういう部分を自他共にリスペクトしていたいと思う。何かを立ち上げてみようと思う、続けていく、そこに集う人がいる。それって全く当然のことじゃないし、たとえ合わなかったとしても、それを問いにして発見をしていけばいいと思う。

・リールを眺めていて、メッシとクリスティアーノ・ロナウドが出てきて、ロナウドの方が荒ぶりまくってメッシが静観している、みたいなAI丸出しの終わっている動画ばかり出てくるようになってしまった。

・葉っぱの付いているでっかい大根を買った。葉っぱの食べ方を教えてもらう。大根を掴んで帰る道は勇ましかった。

11.26(水)

・いい場所を作っていくには、規模や予算は関係ないのかもな。今できることをやってみよう。

・接点を持ち続けるって大事なことよな。やっぱり自分のプロジェクトを進めて、そこから派生させていきたい。

・前提を共有したほうがいいと思っているのは、AIの価値観に飲み込まれすぎているのだろうか。

・自分は意外と「建設的かどうか」という目線を軸にしているところがあるんだろうな。

・なんだか心が荒んでいるのかな。身が入らない。何もしてないけど、きっと何をしても脳が疲れるような予感がする。それ自体が疲れる。

・プロンプトの考案自体がスキルというか、自己責任みたいになりがちだけど、生成AI自体が進んでくると、軽い会話で求めていたようなやりとりが出てくるようになると、いかに日々自分のことを読み込ませておくか、またはそれによっていかに自己点検するきっかけを作っていくかになっていくのかもな。最初から完璧なプロンプトを目指さず、提案も含めてしておくことなんだろうと思う。

11.27(木)

・自分に合った英語の学習法を生成AIに調べてもらったが、そういうものを一切やろうと思えないという前段階の部分をまずは掘り下げる必要があると思った。そのあとに具体的な方法を調査してもらった方が良さそう。

・人気のない夜の公園を横切る。そこの池に住んでいるカモたちが、暗闇で「ンガ〜!」と水をパシャパシャさせている音を聞く。せかせかしていた足を落ち着かせる。

・この前買ったでっかい大根を調理する。まずは豚バラ大根。出汁を濃くしすぎたが、ご飯が進む仕様になった。葉っぱは、洗って茹でて冷水でしめて、醤油と鰹節で炒めてふりかけにした。初めて食べたけどおいしい。白米に寄りかかる品目であった。

11.28(金)

・生成AIに壁打ちしてもらって、習慣の見直しをはかる。「どうしてもできない」みたいな部分が、「自分はそう思っていたんだ」と言葉がドバッと出てきて、かなり助かった。自分にとっては「続けられるかどうか」より、やっぱりネックなのは、その先、「続けられてしまうからこその飽きや怠さをどう払拭するか」だ。「続ける」ことではなく、発見を探求できるように手入れをする、という発想の方が良いだろうな。耕すようにする。発見の場をいかに作り続けるかを軸にしたいものだ。プロセスに着目してみることなんだろう。その上でツールに頼って、スケジュールやタスクに組み込んで微調整していくのがやっぱり良さそう。

・ほんと、未来の先取り不安はしないことだ。だいたいそれで萎えていたりする。それより今やることに取り組んだ方が、決して到達し得ない「安心」に近付いているようでご満悦になる。根本に手入れしたいという考え方がおそらく好きなのだ。

11.29(土)

・近くと遠くの視点。ほんとに。

・FCバルセロナ対アラベスの試合を観る。新カンプ・ノウの雰囲気がまた良くて、改修の影響で臨時のスタジアムを使ってきたここ数年で忘れていたけど、そういえばホームってこういうことだよなと思い出した。アラベスはビトリア=ガステイスというバスク州の小さな街で、去年はそこに滞在していたはずなのに、もう思い出せなくなっている。さみしさもあるが、日記も写真も残っているから、振り返ろうと思えばできるのは良かったと思う。快勝であった。ヤマルはいつものように素晴らしかったし、復帰したラフィーニャとペドリは怪我明けとは思えなかった。こういう試合をまた観たい。

11.30(日)

・「わたしたちって、ちがいをあげつらっては、ぐちっているような気がするの」(アーシュラ・K・ル=グウィン『帰還:ゲド戦記 4』)。自身への反省も込めて、最近ほんとにそうだなぁと思う。悪口や噂話をしたくなる場面はあったりするが、「ではどうしていこうか」を話していたい。解決策を考えない話をしても、くるして仕方がない。批評というものは、その対象の身になってみて言葉が出てこなくなるところまで降りてから、さらに言葉にしようとする部分まで行ってから話していたい。

・小林秀雄が批評について触れている部分を自分は大事な言葉として持っているのだが、引用元を忘れかけていたので、再度調べてみた。「高みにいて、なんとかかんとかいう言葉はいくらでもありますが、その人の身になってみたら、だいたい言葉がないのです。いったんそこまで行って、なんとかして言葉をみつけるというのが批評なのです」(小林秀雄、岡潔『人間の建設』)。この部分だ。自分が批評という見方を大事にしているとき、まず、批評と否定を分けていて、誰かを無闇に評価したいわけではないという前提がある。感情に蓋をして、社会的規範をインストールしたいわけでもない。ただ、「ちっ、なんだよ」みたいに思うことに対して、そう思ったこと自体と対話をしていく態度であることで、自身をなだめつつ、どうしていこうかと考えられる、その豊かさを知っていたいのだ。おそらく自分は建設的であるという見方を信じているところがあって、まっすぐ建設的であるのかと考えるのは怖いと思うが、そうでありたいと思うこと自体はフラットに捉えようとしている。だからこそ、悪口や噂話として出力されている時点で、小林秀雄の言う「言葉を見つける」段階ではないのだと思うし、そんなことをしても自身が苦しむし、容易に人からの信頼も失う。もちろん、そう思っていても完璧にはいかないし、言葉を見つけていったとしても、周りからはそう見えないこともあるだろう。ただ、自分としては終着点としてではなく、出発点としてそういった機微を取り扱う術として、批評という見方を持つことが腑に落ちているのだった。