08.10(月)
・長らく後回しにしてきた申請を終えた。まだ完了まで待つ必要があるが、スタートラインにようやく立てそうだ。汗だくで歩いて帰宅すると、電話があり、書類が1枚足りないとのことで、また行くことになった。要らないと聞いていた書類だったし、提出のときに見ておいてよと一瞬思ったが、こういうのは淡々と遂行しようと思うようにしてみると、よい運動になるしなとも思えてきて、イライラすることもなかった。無事に再提出。歩いてきたと伝えると、「え!歩いてきたの!」と、急に口調が砕けていて、それも含めて愉快だなと思えたのが良かった。この街は車社会なので、車も自転車もなく歩いて移動していると言うと、毎回びっくりされる。人をジャッジすると疲れたりイライラしたりするのだけど、それを手放してみると、こんなにも変わるのかと思う。毎回できるわけではないし、全力ファックだと思うときもあるが、身体を動かすようになった効果だろうか。運動になるから気にしない、というわけでもなく、ジャッジをせずに淡々と遂行する、その過程に身体を動かすことがあったという順番が良かったのだと思う。
・須賀敦子『須賀敦子 池澤夏樹=個人編集 日本文学全集』を読み終わった。「全集」というものを初めて読み切った気がする。今年の夏は須賀敦子と決めてから、迷いなく読んでいったのが良かったのだろう。須賀さんの文体、好きだった。書かれている文章は小説ではないが、随筆と端的に表せるものでもない。だから、須賀さんを知らない人に説明をするとき、どう言えば良いんだろうといつも思う。イタリア時代の話では、家族や友人、出会った人々への描写がかなり具体的である。私は人がどのように人を見て、描写をするのか、そしてそこにジャッジの目線を挟んでしまうのかを、読み手として、いつも見ようとしている。だから、自身に聞くように書く人が好きなんだろう。須賀さんはそういう書き方ではないように思う。あまりにも具体的で、人を見てどう判断したのかが、書かれすぎている。でも、不思議と嫌な感じがしなかった。それは解説に書かれていたように、人間への関心、愛だというと言葉として尽くせていないようにも思えるけど、「Humanity」への関心みたいなものが包まれているように感じたからなんだろうか。私が人文学を愛しているように、人文学そのものが包まれているような文章だと思えたから、須賀さんの文体が好きなのかもしれない。全集を読んで落ち着くかと思ったが、このまま行けるところまで行こうと思い、この本に入ってない本を読んでみることにする。
・須賀敦子も、身体を動かすことも、おお、なんだ、たのしいのか、そうかそうか、だったらそのまま続けちゃおうという感じだ。私は調子に乗っている方がいいとたまに思う。

08.11(火)
・とある対象に対して、その良さがわからないと思ったときは、外部から勝手に入れられた価値観が、一旦リセットされて、ゼロの状態になったということなのかもしれない。だから、自分で一つひとつ進んでみると、そこにはまだ余地があるということだ。好きになるかわからないが、リセットされているのだから、そこから自分で積み上げていけばいい。リセットされた状態で、漂っていること。
・知った上で放り出す。
・台風で風が強いが、この街はデフォルトで風が強いので、平常運転な気もする。台風が逆走することあるんだ。元気なやつだなと思う。帰宅してジムへ向かう。トレッドミルで走っていると、ジムの前に立っていたのぼりが倒れた。ゆっくりと視界から消えていくように見えた。

08.12(水)
・ヤグチリコ『点点 6号』をAIの応答を待つ間に読んでいた。点点は毎回装丁が痺れるなと思う。大雨と雷で、音の情報量が多い中で読んだ。だけど、大雨の音は嫌いじゃないし、その中での読書の時間も好きだった。AIの使用制限に達したので、本だけに集中して読み終えた。なぜ日記を書くのか。ZINEをつくってみると、そういった質問を受けることがあって、あとがきのヤグチさんと同じく、もごもごと答えたりしている。それなりに言葉を尽くすけれど、そういったことは文章を通して考え、やりとりしていたいなと私は思っている。日記を書こうと思って書いているのではないこと。日々、短い断片的な文章を1日の中で何度も書きつけているが、書こう、書きたいという意識が生まれる瞬間とはまた別で、オートモードみたいに書いていること。そういった素材があったから、編んでZINEにしたり、Webで公開したりしていること。今、日記本はたくさんあるし、日記についてあちこちで語られているけれど、その都度その人が日記を捉え直すものでいいのではないかと思う。そしてそういう言葉や日記をこうして読むことが、なんだかとても楽しくて豊かであるのだった。
・キヨマサが、シャバーニとアイちゃんの群れから離れるらしい。これはビッグゴリラニュースだ。

08.13(木)
・批評のリテラシー。確かになぁ。周りの環境ではそういうものが高まったらいいなと思う。
・私は調子に乗っているぐらいがちょうどいいというか、自分の中で大きいこととして、その対象を取り扱う方がいいってことなんだろう。普通かどうかではなくて。自分にとって大きいことならば、発見に対するリスペクトも自身で失いにくいはずだ。

08.14(金)
・共感の圧力というものがある。当事者ではないから、距離を保つことができるのではなかったか。当事者という見方自体を取り払うことだってできる。なのに、わざわざ入ろうとして不安を取りに行く必要はないのだと思う。不安に思わないといけないのかと伝染していくところもある。そういうことについて心を痛めていることが、コードのようになっていく。距離を保つことは、考えていないことではなくて、そこでしか受け取れないことに対して、自らの範囲で責任を持つ、ということだと思う。
・ドラマ『BEEF』シーズン2を観終わった。関係性というものを捉え続けた作品だった。寝る前に観るのはしんどいような、でもどこか遠くの話のようで、すぐ目の前にある話のようでもあった。これは何エンドなのだろう。こういう終わり方をする映像作品はなかなかない気がする。シーズン1は対立をきっかけに、元々抱えていたものが表出して止まらなくなる様子だった、そして最後には物語らしく、この先も両者は生きていくという着地が明確であった気がする。シーズン2はこのドラマのテーマとされる対立はずっと掲げられてはいたが、それよりも、もっとぬめぬめしていて、それでもって「関係性ってそうだよね」という回収するような言葉を先回りして潰していくような印象があった。関係性の不毛さ、ニヒリズムを描きつつ、そこから見えるものがあると終わらず、「何が幸せか」なんて問い方自体をぶっ壊すような。突きつけるというより、問うわけでもなく、「もうそこにないですよ」とただ交通整理をして迂回を促すような脚本で書かれていたなぁと思った。あとはオスカー・アイザックがマーベルドラマ『ムーンナイト』で複数人格を、しかも言語やアクセントの違いを表情でも演じていたのは痺れていたけど、やっぱりオスカー・アイザックが好きな俳優なんだと、再認識できたのが良かった。

08.15(土)
・ポッドキャスト自体を知らない人がいて、大変驚いた。
・ノーヘルで原付に乗ってる人を見たのは、沖縄の離島以来か。
・バカにすると理解が進まない。ほんとにそうだと思う。参与観察もそうだよなぁ。

08.16(日)
・楽しい会話って、楽しみ方を拡張できるような感覚がある。
・自分たちのポッドキャストの編集をしていて、おもしろい話だなぁと自分で思ってしまっている。
・続けることについて考える。今のところ、運動は楽しいのだけど、淡々と続けていきながら、いつだってその瞬間の身体の動きを感じる喜びを忘れたくないなと思う。
