日記的雑記帳「カイエ」|2026.10.19-10.25

10.19(月)

・体調のままならなさや波はあるけれど、人間は意外と体力があるのではないかと思っている。体力があるから色々できるということではなく、不調や痛みにすぐ左右されてしまう前提で体力を信頼するというか、そういうことはもっとしてみてもいいのかもしれない。私は世界に対する信頼をしていきたい。

・人生初のピアスをわざわざクリニックで開けに行った。開けに行く、という行為が新鮮で少し可笑しかった。今日は開けに行くぜと思って朝起きたのは良かった。意外とそこまで緊張しなかったが、痛みに弱いので、直前は流石に不安になった。とても優しくケアしてもらってしまった。痛くないと、周りに聞いたほぼ全員に言われたが、バチンという音の後にジンジンと耳たぶが熱くなって、私にとってはこれは痛いぞと思った。多分、いつか思い返したときに、その記憶の中では痛くないんだろうなという程度だと思うが、今の私は痛かった。めっちゃ似合っているじゃないですか、と言ってもらったが、今痛みを受け入れている段階なんでちょっと待ってくださいと言ったら笑っていた。1分ぐらい経ったら、めっちゃ似合っているな!とふつふつと喜びが湧いてきたので報告した。痛いのなんて嫌に決まっているが、こんなにも両耳を意識することはなかったので、痛みを引き受けるという感覚を背負いながら帰った。身体に穴を開けて着飾る。自ら傷を作る。ピアスはファッション以前は儀式的な側面もあったのだと思うが、傷を作り、痛みと共に在り、装飾をするという行為は、なんだかそういう歴史に自分が入っていくようで、もぞもぞとした嬉しさがあった。そして、何よりもめっちゃ似合っているので素晴らしい。ピアスを開けたことを人に報告すると、色んなエピソードが聞けるのも、思わぬたのしさだなと思う。耳を冷やした方が痛くないと思って、真冬に自転車で疾走して、耳を冷やし切ってから帰宅して家族に開けてもらったという話がおもしろかった。もし生きながらえることができたら、ジジイになっても好きなピアスを付けていたいなと思った。

10.20(火)

・ふつふつというのは、心の中に火が灯っている感覚。そういうものが今はある。手放すと余白が出てくる。空気がないと火は燃えない。ほんとにそうなのかもしれない。

・身体のある文章かぁ。考えてみたい。

10.21(水)

・朝、メールを確認すると、PHPが〜という件名が並んでいる。どういうことかと思ってニュースサイトを開く。どうやらAIがPHPの脆弱性を見つけたので、あらゆるサービスが対策としてメンテナンスをしているらしい。最近は情報漏洩のメールも多い。いよいよこうなってくるのか。昼に人とこういううどんチェーンがあるんだよね、という話になって調べてみると、うどん屋のサイトもメンテナンス中だった。妙にそれが印象的だった。パンデミックのときのエッセンシャルワーカーと、その人たちの支えで悠々とリモートワークする人たちの対比を思い出した。無力な私が関わるのは、こういった話の中で出てきたうどん屋のサイトを見るぐらいのことであるんだろうなとも思う。

・文章を書くことが、もどかしかった。リハビリという感じ。

10.22(木)

・何度同じ箇所で失望するのだろうと思う。倦怠感のような重み。そういった重さにいっそ安住してしまいたくなる気持ちがあって、少しぞくっとした。

10.23(金)

・わかってほしくて言葉を交わそうとするわけじゃない。ではどうしてなのだろう。どうしたって私が見たいように、願うように見ることになる。でも、それを欺瞞だと否定に走るほど、もう若くはないし、ここまで図太く生きてきてしまった。そういったことは、生きることの頼りなさ、脆さを表していて、どうしたってそれは豊かなことなのではないかと思ってしまうのだった。

・『野ブタ。をプロデュース』の最終回を観た。今年の8月ぐらいにNetflixで配信されていることに気付いて、何年、何十年振りに再び観始めた。それから毎話心が動きすぎて、最終話を観たら、たくさん書きたくなるだろうから、余裕のあるときにしようとずっと観るのを保留にしていた。数回前のポッドキャストでも話したが、結局10月の終わりになってしまった。でも、絶対に今日だった。今日ほど相応しい日はない。誰かのためにってことは、自分を大事にしていないってことなのかな、と修二は言っていた。出会いと別れ。自分勝手に生きるということ。作中で修二が言った。人を好きになるのって、ささやかなことだったのだと。このドラマの所々で、私は何を受け取っているのか、生きてきたのかと考えることになるなと思う。最近は須賀敦子、サン=テグジュペリ、星野道夫の文章を読んできて、それらの言葉がつながっていくような感覚になっていて、『野ブタ。をプロデュース』もふいにつながった。須賀敦子は「ひとりの人を理解するまでには、すくなくも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ(塩一トンの読書)」と家族から聞かされた話を書き、サン=テグジュペリは「この世に本当の贅沢は一つしかない。人間の関係という贅沢がそれだ(人間の大地)と書き、星野道夫は「人の心は、深くて、そして不思議なほど浅いのだと思います。きっと、その浅さで、人は生きてゆけるのでしょう」と書いた。そして、修二は「俺たちは、どこででも、生きていける」と言って、走って行った。「どこででも」という言葉。引っかかりがあるのに、不思議となめらかに思えてくる、その言葉。どこででもっていいな。どこででも。どこででもかぁ。

10.24(土)

・ジムで今日は身体が軽いと思っていたら、いつの間にか疲労があり、いつもより回数がこなせなかった。それでも自身と対話する時間が持てたのは良かった。ジョギングは内省的だという話を聞いて納得する。傷をなぞる時間になることもあるけど、身体を動かしながら言葉の中を漂う時間は、やはりとても好きだなと思う。流石にジム着が薄着すぎて道中は寒かった。もう冬まで行ってしまうのだろうか。今週半袖を着ていた気がする。

10.25(日)

・デザインを考えるのってたのしい。問題はそこに時間をかけていることに、段々と焦燥感が生まれること。そういう楽しさが無目的で良いというのはそうだと思うが、なかなかそんな塩梅は掴めないものだ。

・自分との対話、当事者研究みたいなものは、ここ数年でずっとし続けてきたんだなぁと思う。書くこともそうだし、思っていることを素直に話す、そういう環境や相手がいてくれたことへの豊かさをようやく気付いてきたし、そういうものは積み上げる、そして時には崩されるものではなくて、いつだって掘り起こせるようなものなのだと思えている。