日記(カイエ)を書いて、公開し始めてから2年以上が経つ。
自分にとって日記とは、誰にも見せない日記帳の中だけの文章ではない。毎日の膨大な雑記を1つの枠(週ごと)に編んで載せていく習慣のことを、自分は「日記」と呼んでいるのだと思う。
始めたきっかけも、どこに載せなくとも書いている素材が膨大にあるのだから、まぁ外に置いてみると、何かおもしろいかもしれないという感じだった。だから、「日記を書こう」と思って書いているのではなく、既に持っている素材を編んで、「日記」風に仕上げていると言う方が近いのかもしれない。だから、『日記的雑記帳「カイエ」』という名前を付けている。
誰に向けて書いているのだろうか。きっと誰かのためでも、自分のためでもない。書くことには、もっとそれらの淡いがあるはずだ。少なくとも、本当に「まぁ誰も読まんでしょ」と卑下するでもなくそう思っている。でも、嬉しいことに数人は読んでくれていることを知っている。それは素直に嬉しかったりする。誰が読むんだろうと確かに思っているが、読んでくれている人がいることを確かに喜んでいる。それらが矛盾せずに同時に存在している感覚がある。

だからこそ、言葉を編んでいくときがおもしろいと感じる。素直に思ったこと、見たことを書いていくのだが、載せないことだってたくさんある。さらにいえば、書き得ないことも無数に存在している。その中で自分は何を載せようとするのだろうと見つめることは、探求しがいがあって楽しめているのだと思う。
読者に寄せた文体は、それはそれは好きではなくて、自分はそういう文体で書きたくない。出来たらそういう文章が読みたいなぁと、他者の領域にまで手を出したくなる。だが、日々書いている雑記をそのまま「日記」として編もうとはしない。どうしてだろうか。
鷲田清一さんの本を読んでいて、「希望を編み直す」という言葉が出てきた。希望って編み直せるんだと嬉しい気持ちになった。自分が編集するときも、そのようなニュアンスがあるのかもしれないと思った。無数の誰かが読むなんてあまり想像できない。でも、大事な数人が、ちょっとでもクスッとしてくれたら良いなと思って足す一行があったりする。何かの言葉をスッと掬い取ってくれるかもしれないと思って組み替える一節があったりする。

信仰心が欠如している自分の持つ唯一のバイブル、漫画「違国日記(ヤマシタトモコ)」には、主人公の槙生ちゃんが、両親を事故で亡くした姪の朝に、「日記を書くのはどうだろうか」とポツリとつぶやくシーンがある。
この先、誰があなたに何を言って、誰が何を言わなかったか、あなたが今何を感じて、何を感じないのか、たとえ二度と開かなくても、いつか悲しくなったとき、それがあなたの灯台になる(引用にあたり句読点を補った)
日記を書き続けてきたが、書いた日記を読み返すことは、正直ほとんどない。悲しくなったとき、日記の存在を思い返すかというと、あんまりない。でも、「灯台になる」というのは、そうかもしれないと微かに思う。
灯台を「明るく照らすもの」だと自分は受け取らない。灯台がどこかを照らしている間、その周縁には暗闇が溢れている。だが、これを「光と闇」だという捉え方もしない。灯台は船の進む方向を示す役割を持っているが、灯台が在り続けること自体が、自分には豊かなことだと思えてならない。

日記を書くことは、植物に水をやる感じかもしれない。”あげる”ではなく”やる”。自分で植物の命を預かっておきながらも、「すまんけどめんどいなぁ」と思いながらだから、少しだけ投げやりな感じ。
淡々と手入れし続ける。日記とはそういう付き合い方をしていくのかもしれないと思っている。いつか枯れて手放すかもしれない。でも、土壌が乾き、水をやる対象が存在し続けるのであれば、枯れたときのことまでは考えていないものだ。
だから日記を書き続けるし、誰かの日記を読んでみたいと思う。日記という文学はおもしろい。たとえ誰かが「誰が読むの?」と言ったとしても、自分は読む。日記をおもしろがれる土壌が耕されているから。
そういう人がいるのかわからないけど、もし「自分なんて」という人がいたら、自分は読んでみたいし、どうぞ書いてみてくださいと思う。ほんとに煽動するのは嫌だし、書かない、書けない、興味がないことをリスペクトするのだけど、確かに思っている。
よく思うのだけど、どれだけ身近な人でも、自分とは全然違う生活を営んでいて、改めて書いてみたり、写真を撮ってみたりすると、「え〜こんな感じなんだ、おもろ〜」と思えるものだったりする。
あったことを適当にそのまま書くだけで、それは日記だし、文学になる。それってすごくないですか。プロかアマなんていう見方をしなくても、あるもんはあるのだと思う。日常に埋まっているものは既に無数に存在している。目の前の土壌に手を入れて、掘り起こしてみると、誰だって必ず収穫できるものがある。なんと楽でお手軽なのか。だからこそ、自分は日記を書き続けるし、日記を読み続けるのだと思う。
