年末になると、1年間の写真と本を振り返る記事を毎年書いている。
今年は「受け取ったなぁ」と思う出来事がたくさんあった。以前にも別の文脈で「身を投じる」という話を受け取ったことがあり、それらに編まれていくような気がした。
何が生まれるのかはわからないけれど、いつかの誰かに取り出されることはあるのかもしれないと思った。だからこそ、ある意味で手放すように、今年は書いていくことにした。
読むこと
今年読めて良かった本を記録してみる。読んだ冊数を数えてみると、計64冊だった。
こうして振り返ると、自分の読書傾向が見えてくる。ここ数年、読んでいるのは「人文書」ばかりだ。おそらく、自分は「人文学」という枠への関心がある。それに対して、もっと幅広い分野を読みたいと思っていた時期もあった。
文学作品、たとえば「小説」となると、今年はほとんど『ゲド戦記』しか読んでいない気がする。このシリーズを読み進められたことには満足している。読みたい小説はたくさんあるのだが、どうしても後回しになってしまう。
「人文学」と「文学」を枠として並べてしまうと、「自分は何が好きと言えるのか」という視点になる。その時期には「自分は文学が好きとは言えないのではないか」と、まるでそれが危機であるかのように感じていた。
そうなったとき、なんだか違和感を抱えるようになった。本というものは、枠を強化するものではなく、枠を攪拌させて、捉え直しを図るような、もっと開かれたものではなかったか。言葉で定義することをまったく取っ払ってしまうのではなく、むしろ言葉の現れを、もう少し味わっていられないものだろうかと。
思い返せば、「人文学」という日本語もそうだが、英語の「Humanities」という言葉に美しさを感じていた。「Humanities」とは、まさに自分が読みたい文章の感触をよく表していると思う。人文書にそれがあって、小説にはない、という話ではない。ただ、自分にとっての「Humanities」の輪郭は、これまで読んできた本によって形作られてきたと言えるのだろうと思った。
だからこそ、目の前に転がってきた本を、ひたすらありがたく読んでいこうと思い直した。むしろ、とことん読みたい本を読んでみよう、と観念できた気もする。
形作られてきた「Humanities」に、読み終えた本たちがただ積み重なっていくのではなく、編み込まれていく。来年は「書店兼出版社」の活動が絡まっていくのだろうし、それらに、どのような本が放り込まれていくのだろうと思う。
- 百瀬文『なめらかな人』
- 松本俊彦、横道誠『酒をやめられない文学研究者とタバコをやめられない精神科医が本気で語り明かした依存症の話』
- いちむらみさこ『ホームレスでいること 見えるものと見えないもののあいだ』
- ハンナ・アレント『責任と判断』
- オリバー・バークマン『限りある時間の使い方』
- くどうれいん『日記の練習』
- サン=テグジュペリ『人間の大地』
- 齋藤美衣『庭に埋めたものは掘り起こさなければならない』
- 木村伊兵衛『僕とライカ』
- 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』
- 永井玲衣『世界の適切な保存』
- 光浦靖子『ようやくカナダに行きまして』
- J・D・ヴァンス『ヒルビリー・エレジー』
- 安田登『三流のすすめ』
- 宇野常寛『庭の話』
- 島田潤一郎『古くてあたらしい仕事』
- 野口理恵『生きる力が湧いてくる』
- 白石正明『ケアと編集』
- 牟田都子『文にあたる』
- 伊藤亜紗、村瀨孝生『ぼけと利他』
- 勅使川原真衣、野口晃菜、竹端寛、武田緑、川上康則『「これくらいできないと困るのはきみだよ」?』
- 鷲田清一『「透明」になんかされるものか』
- 鷲田清一『素手のふるまい』
- 幸田文『木』
- 河合隼雄『大人の友情』
- 鷲田清一『だれのための仕事』
- レベッカ・ソルニット『迷うことについて』
- 三砂ちづる『心の鎧の下ろし方』
- ルイジ・ギッリ『写真講義』
- アーシュラ・K・ル=グウィン『こわれた腕環:ゲド戦記 2』
- 笠間直穂子『山影の町から』
- 小谷輝之『本をともす』
- アーシュラ・K・ル=グウィン『さいはての島へ:ゲド戦記 3』
- 茨木のり子『言の葉さやげ』
- ミシェル・クオ『パトリックと本を読む』
- アーシュラ・K・ル=グウィン『帰還:ゲド戦記 4』
- 鴻巣友季子『学びのきほん 英語と日本語、どうちがう?』
- モーガン・ハウセル『サイコロジー・オブ・マネー』
- ティム・インゴルド『世代とは何か』
- 児島青『本なら売るほど』
- 香山哲『レタイトナイト』
撮ること
今年も変わらず、フィルムで撮り続けている。帰国したあとも、昨年と同じく、信頼しているスペインのフィルム現像所「Carmencita Film Lab」にお願いしている。
日本からスペインへ郵送するのは大変かと思いきや、東京の「BOOK AND SONS」という書店兼ギャラリーが「Carmencita Film Lab」と提携してくれている。依頼から郵送までをまとめて取り次いでいるので、他の国から送るよりずっとスムーズな仕組みが構築されている。とっても助かっているし、写真集やアート関連の本の専門店、写真展などを行うギャラリーでもあるので、依頼で店舗を訪れる楽しみもできた。
もしフィルムで写真を撮る人がいたら、ぜひ依頼してみてほしいなぁと思っている。東京在住じゃなくても、ここに郵送して申し込みをするだけで、スペインまで送ってくれる。ほんとに痺れる現像に仕上がるので。
月初に、先月撮り終えたフィルムをまとめて出して、中旬から下旬にかけて現像が上がってくるというサイクルもできてきた。
ただ、定住を始めてから、同じ場所に居続けることが増えたというか、ほとんど街から出ない生活になってきている。それを「飽き」と捉えるのか、それとももっと開かれた状況として捉えるのか、まだ調整している。撮った枚数も、去年より減ったと思う。
たとえば、いつも同じ道で撮っている気がするとき、そこにおもしろさもあるのだけど、意識しないと「まぁ撮らなくていっか」を繰り返してしまう。そうなってくると、心がしなしなになってしまいそうだ、とも思った。
デジタルという選択肢があるなかで、高騰化し続けるフィルムを使い、さらに現像にお金をかけるとなると、どうしても作り続けることに制限をかけたくなる。ただ、そこで立ち返りたいのは、その制限に思えるものは、本当に覆らない枠なのかということだった。
そもそも写真だってそうだ。区切れない世界の広がりに直面して、わざわざフレームを作り、囲ったものを出力していく営みである。写真で在り続けるということは、枠を制限として閉じ込めることではなくて、枠が生んだものを観察し、手放していくようなプロセスに至るものなのではないかということだ。
ここまで書いてみると、図らずも写真と本が、「枠」という言葉によって編み込まれてきたようだった。枠によってこぼれるものがある。そこに良し悪しではない捉え方として、撮り続けていたいと思う。

年越しはベトナムのホーチミンにいた。毎朝4時に隣の教会から爆音の鐘が響くような宿に泊まってしまい、睡眠で苦しんだとき、友人たちが話していた「Life has seasons」という言葉を聞き、しみじみと考えた。人生には季節がある。ほんとにそうだなぁと思う。自分はまさに、防寒着を持たないまま真冬が来てしまったという感じだった。所持しているものをかき集めて、なんとか寒さを凌ぐことになるんだろう。だが、徐々に暖かく、木々が生い茂る季節も必ず来る。ゆらゆらと漂うように、季節は巡るのだと改めて思えた。スペインから出国後、いくつかの国を経由して、こうしてベトナムに辿り着き、次はいよいよ日本へ帰っていく。

日本へ帰国した。久しぶりの日本は、あらゆることに発見があって、ちょっとおもしろすぎた。フライトを終えて、早朝の光が差し込んでくる電車に乗り込み、スーツケースを抱えてぽつりと座っていると、停車する度に開く扉から、日本っぽい清潔な匂いを感じた。スーパーの円表示と品揃えの良さに感動した。風呂に浸かれること、追い焚き機能にその素晴らしさに溶けそうになった。感受性のボーナスステージに突入している感じがあった。きっとそれは一時的なもので、すぐに慣れてしまうのだろうけど、そのときはただ、素直に発見の喜びを味わってやろうと思っていた。

木彫作家の友人のアトリエに滞在させてもらった。拠点を持つことについて、よく考えた。誰かが拠点へ遊びに来てくれることは、改めてすごいことだと思った。来てもらえる場所を作り、待つということの豊かさを体感した気がする。拠点を探す上で、「何がしたいのか?」というのは、問いの立て方としてどこか違うと思った。そこに当てはまる、わかりやすい答えを用意する思考になるから、その間にあるものがこぼれ落ちていく。大事なものをわかりやすいものにすり替えている。確かに少しの間は楽になるかもしれないけど、根本的なところに届いていないのではないかと思っていた。

数日前まで存在すら知らなかった人々が、ひたすら何かをつくりだしてきた様子を、次々と目の当たりにする機会があった。ものづくりをする友人たちとの対話を、短い時期に繰り返してもいた。そういった刺激は頼もしくもあるのに、同時に、受け取りきれない何かを抱えてしまったと思った。最初は疲労だと思ったが、そうではなく、どこかムズムズするところがあり、創作意欲のようなものでもあるようだった。これは「祝福」のようで「呪い」であり、「呪い」のようで「祝福」なのではないかと思った。そのときよく考えていた「満足感の正体」、言い換えると「慢性的な苦しみとどのように付き合っていくか」は、このとき感じたムズムズとは、どこか近しいものがあったのだろう。これから色々と掘り起こされる発見がありそうで、疲労の中から微かに楽しみを感じた。

世の中にはたくさんのはたらく人たちがいて、自分の近しい人たちではまず見ないような倫理と態度を、当然のように纏っている人がいるのだなぁと、家が決まる前、久しぶりに組織で短期間働いてみて思った。対話が成される、成されない、みたいな次元ではない。問題に対処してもまた新たな問題が生まれてくるし、自分がその連鎖の一部に組み込まれていること自体に嫌気が差して、面倒になって疲れてしまうときがある。貴重な経験ではあるが、きっと薄れていくものだし、だからこそ、経験を重視するよりも、どのような環境にいても、それを耕し続けるかなんじゃないかと思った。知っても仕方のない世界線はある。踏み込んでしまったら退却して、退却後の環境を耕すことだと思った。

編集者の仕事というのは、共に考えて、おもしろさを発見していくことに尽きるんじゃないかと思った。真摯に考えている人、問いを抱えようとしている人はおもしろい。自分はお節介をしたいのかもしれない。他者とは絶対に分かり合えない上で、明確に自他を切り分けた上で、あえて境界線を超えてお節介をしてみたいのだ。そういったことが、編むことではないかと思う。自分にとってのバイブルでもある、ヤマシタトモコ『違国日記』の「せっかくなら苦しんで生きたいでしょ」という言葉を時折思い出していて、せっかくなら苦しんで、人生は死ぬほどめんどくさい上で、クソおもしろいじゃんという態度で、はたらいていくぞという気持ちを抱いた。

無事に家が見つかり、定住した。引越しといっても、空っぽの家にスーツケースとカバンを持って移動してくるだけだった。マットレスが届くとクッションの柔らかさに感動し、机が届くと使いやすさに感動し、椅子が届くと椅子に座れることに感動した。数週間経って電子レンジと冷蔵庫、洗濯機が届くと、文明の利器に圧倒されたが、なくても意外と生きていけるのだと思った。定住を始めてみると、生活は永遠に整わないのだと感じる。むしろ、「生活に溺れている」という感覚が在り続ける。そのぐらい、本来は生活ってすさまじく大変なことなのだと思った。

数年振りに実家へ行く用事があった。ずっとこの場所から出たいと思っていたが、久しぶりに戻ると、見慣れすぎていて呆れるほど落ち着くものだった。この感覚を「故郷」と呼ぶのだろうと思った。夜、電気も冷房もつけずに緑のソファに座ると、この家には音があった。窓を全開にすると、ひんやりした風でカーテンが擦れ、虫の声と、たまに通る電車の音が混じる。確かに癒される。けれど同時に、自分はあまりにも空っぽだと思った。悲しいわけではない。文化の気配がほとんどない街で、こんなに落ち着いてしまうと、ここでは何も思い付かなかった自分が今もいるのだとわかる。その空虚さに抗えない気もする。何もなければ、何も求めなくて済むのだ。だからやはり、自分はここにはいられない。静かな夜の音を聞きながら、空っぽな自分の輪郭だけを、かろうじて見つめていた。なんだか嬉しかった。「ふつふつ」と嬉しかったのだ。たしかに今の自分には何もない。ただ、空虚であることが、生きている実感の一部になったのだと思えた。

アーシュラ・K・ル=グウィン『ゲド戦記』シリーズの読書会に参加し続けてきて、改めてこの物語は、読めば読むほど深みが出る、まさに「まみれていく」と表現できると思った。最初は複雑で抽象度が高いように思えるのだけど、影との戦い、生と死、自由と制限など、古典的な教訓を含みつつ、どの時代でも「今を生きる」自分たちに深く問いかけてくる物語だと思う。読書会の体験もおもしろい。考察や意見の表明だけではなく、各自が本を読んで「何をどのように受け取ったのか」を話すからこそ、場によって言葉が引き出され、たくさんの言葉が編まれていく感覚がある。そういうとき、「うわぁ、こういうことかも!!」という発見が、話しているときも、聞いているときも多くて楽しい。

撮るとき、書くとき、読むとき、対話するとき、掘り起こしている感覚がある。それは単に過去を振り返って行なうのではなく、今ここで、すでに埋まっていた新たな断片を見つけようとする営みなのだろう。そういったことを「置く」と捉えてきたが、最近触れた「埋葬」という言葉もしっくり来ている。時間軸が分断されているわけではなくて、生きて、死んで、腐って土にかえって、それを栄養に育つものがまた出てくる。埋葬しておけば、そういうものが掘り起こされるのだろうと思う。
ポッドキャスト
最後に、「共存人類学研究会」というポッドキャストを、1年半(もうすぐ2年)続けてきたので、今年配信して印象に残った回を共有してみる。
