09.29(月)
・「笑えない」「弱いままではいられない」「現実は厳しい、苦しい」と感じる人がいたとして、その思い自体がその人の「抗い」であり、存在の表れなのではないか。たとえ本人がそう思えなくても、だからこそ周りがおもしろがってあげること、それが編集であり、ケアなのではないかと思う。
・人を変えようとすること、コミュニティに何かを作用させようとすること自体、そもそも問いの向きが違っているのかもしれない。まずは、どうしたら自分を楽しませられるかを出発点として、そこから考えていけばいいのではないか。
・最近、自分の一人称が安定しないなぁと思う。話し言葉では敬語では「僕」、タメ口では「俺」と長らく切り分けてきた。だが、「僕」という言い方がしっくり来なくなり、なるべく使いたくないと思うようになったが、長年の癖で敬語だと「俺」と「僕」が混ざっていて、自身で混乱している。基本的に文章は常体で書きたいが、「俺」だと収まりが悪いように思える。だから「自分」と書くようにしていて、こちらはしっくり来ている。ただ、敬体の場合で「私」と試しに書いてみたら、意外と悪くないと思ってしまい、さらに混乱している。揺らいでいるぐらいが、ちょうど良いのかもしれないが、自身の収まりが良い感じにはしていきたいと思ってしまう。

09.30(火)
・まだ半袖でちょうど涼しいぐらいの気候だが、このぐらい心地の良い時期はあと1~2週間ぐらいなんだろうなと思うと、たくさん楽しんでおこうと思う。
・溺れている気持ちなのかもしれないと思えることか。
・とにかく時間がかかるものなんだろうなぁ。

10.01(水)
・たこ焼き屋で、焼き上がるまでパイプ椅子に座って、島田潤一郎『あしたから出版社』を読む。いつもは人の少ない時間帯に行くのだけど、今日は入れ替わりで多くの人がやって来ていた。「あと15分ぐらいかかりますけど」「大丈夫です」。ここには待つ時間が流れている。最近レジ打ちをして思ったが、意外とお客は待てるものだ。「カスハラ」という言葉が生まれたおかげで減っているのだろうか。こういう店だからだろうか。本書にもあったように、出版不況で本が売れないのではなく、「わざわざ読みたい」と思い、待てる人に向けて本を作るのだという視点もあるのだと思えた。わざわざ欲しい人、待てる人に、作ったものを手渡していきたい。
・たくさんの荷物を抱えている人は、根性があるとシンプルに思ってしまう。
・いろいろ不安はあるが、とりあえず今身体が動くこと自体がとてつもなく豊かなことなんじゃないかと思った。

10.02(木)
・児島青『本なら売るほど』を読んだ。いまちょうど読みたい本、というか漫画だった。特定のジャンルの漫画を描いているからといって、必ずしもそのジャンルに熱中しているわけではないというのが、漫画の作者という存在だと自分は思っている。だから良くないとかではなく、それでもおもしろい漫画がたくさんあるということだ。だが、この漫画を描いた作者は心底本が好きなのではないかと思ったし、最新刊のあとがきにそのような記載があったので納得した。
・自分が会社やチームを作るのならば、まず個人の健康と生活があって、そこから設計して役割分担する組織でありたい。感情優先というか、感情的であるわけではなく、「どうしてもこう思う」という部分をリスペクトできる状態を作りたい。
・栗ご飯を炊いて食べた。いつ振りだろう。中学校の給食とかかもしれない。「秋」という記号を食べている。栗ってこんなに甘いんだなという感動があった。それなのにお米と合っていて、過去の人々はよく開発したなぁと思った。
・アーシュラ・K・ル=グウィン『こわれた腕環: ゲド戦記 2』を読み終わった。1を読み終わってから数年経ってしまった。友人が「今年はゲド戦記」と言っていた。今年中は難しそうだが、全巻は読んでいきたい。
・どうしてわざわざ自身を見つめようとするのか。知りたくない、知ってしまうことは怖いのに。おそらく自分は、放っておく方が落ち着かない。考えることは立ち止まることであり、建設的ではないと言うのだとしたら、自分はむしろ建設的という視点が意外と強い上で、問いを立てる方が建設的だと思っている。「考えても意味がない」「結局こう」みたいな話で、自分は到底納得できないし、腑に落ちるところまで、それが仮である上で行ってみたいといつも思っている。言葉は仮初であったとしても、わざわざそうだと指摘せずに、言葉を信頼していたいから、言葉を尽くそうとする。
・自身を見つめることにおいて、自身の感情を見ようとすることと、点検しようとすることは、意外と別物として捉えているのかもしれない。何を感じたのかを素直に保持しておく上で、その捉え方から派生する道はないのかを探り続ける感じが自分にはある。

10.03(金)
・秋なのでキャッチボールがしたくなって、軟式野球ボールを買った。白い粉が手に付くから、そうじゃないと思いつつ、食器用洗剤で洗って粉を落としておいた。早く投げたい。
・自分が稀有か、才能があるかとかより、いかに続けられるか、楽しめるか、探求できるかを探った方が良いと思った。誰かを「できない」と端へ追いやって、自身を「できる」と断定したとしても、相対的な評価を幻想のように抱くだけで、何になると言うのか。救いにもならない。相対評価はうんざりだ。それで「頑張ろう」なんてスイッチが入る人間ではないと、自身を明らかにしたじゃないか。
・梅仕事してみたい。

10.04(土)
・笠間直穂子『山影の町から』を読み終わった。しんしんと読むような本だった。秋のはじまりに読めて良かった。最初、高崎の書店で見かけたとき、「秩父へ移住」というラベルをだけを見て、自身が秩父に数日滞在した記憶を思い出し、家に帰ってWebで試し読みをしてみた。すると、「秩父」という場所で生まれた文章ということもあるが、何よりも著者の文体に惹かれたのだった。好きな本、読めて良かった本はたくさんあるが、文体に惹かれる本に出会うことは少なく、だからこそ豊かな気持ちになった。
・前を歩く人が絶対にテニスのレシーブの手の動きをしていた。
・対比について。対比を通した発見が先であったのに、対比で終わっているから納得できなかったのだろう。対比が全部ダメなのではないのか。
・自分は思っている以上に相対的な見方をしている気がする。「〜ではなく」という言い回しを多用するのは、「普通はそうだが自分はこのように思う」ということでもある。確かにそう書くことで、伝わりやすくなることもあるだろうが、何よりも自身でそうした最もしたくない見方を内包することになっていないだろうか。そこをあえて黙っておくことで、その思ったこと自身に自身も注目できるのではないか。
・濁ること。水は濁ることで、生物が生まれてくる。綺麗でいることだけではない、濁ることで見えるものもある。虫のしみ。記号を食べること、食べられないこと。夜には、佐々木マキ『やっぱりおおかみ』のことを思い出した。

10.05(日)
・久しぶりにキャッチボールをする。軟式野球ボールはグローブがないと手が痛くなると知った。突き指をして終了。疲れたが、身体を動かした疲れは心地よい。いや、まだまだ疲れたって感じだけど、基礎代謝が上がっていけば、運動の疲れは心地よくなるのではと期待している。帰り道にケーキ屋の前を通る。実家にはろくに食卓や料理の思い出もなく、カップ麺と菓子パンで育った自負があるのだが、そういえば、親はたまにケーキを買ってきていた。ケーキ屋の店員が父と同級生だった。今は高頻度で食べるわけではないが、ケーキは好きだ。意外と幼少期の食べ物の記憶はあるものだし、むしろ幼少期の食べ物の好みを引き受け続ける気もする。親の何が呪いで祝福なのかはわからないものだ。
・3人前のマルちゃん焼きそばが好きで、いろいろな味が出ているので、最近は味の冒険をしている。長らく「塩」がお気に入りだったが、「お好みソース」が追い上げてきていて、今日は「しょうゆ味」を試してみた。「焼きそばをめっちゃ美味しく焼けるから」と言って、振る舞った。とても美味しいのだけど、なんだか奥深い味で、脳に「おいしい」と認識させるまでに、複雑な長い迷路を抜けていくような時間の経過がかかる味だった。ポテチの関西だししょうゆ味に若干似ているような気がする。そして、「意外と食べ物で冒険するよね」と言われて、確かに定番の好きなものはありつつ、いろいろ試して決めてみたい気持ちが自分にはあるようだ。おそらく、服を好きになってきてから、そういう気持ちが生まれたのだと思う。以前は夏にショートパンツ以外を履くメンズは、無理して生きている可哀想な人たちだと思っていた。だが、服が好きになってお気に入りのシャツに合わせるのがショートパンツだけでは味気なくて、試しに長いパンツを履いてみると、意外と大丈夫なもので、そこから楽しみが増えたのだった。そもそも、日本の夏は暑すぎて、ショートパンツを履こうが、長いパンツを履こうが、どのみち暑いので問題はなかった。自分には好き嫌いが明確にあるようだが、それは仮固定であって、いつでも覆る可能性を含んでおくようにしている。きっとそれは伝わりにくいことでもあるし、少しさみしいものだなぁと思う。
