10.27(月)
・秋晴れで暖かい。窓を開けて、空気の入れ替えをしても寒くないのがうれしい。心地のよい朝。
・海の底で誰かと繋がる感覚か。
・人を巻き込むというか、関係を編んでいくことのおもしろさ。
・主語を自分に起き続けることなんだろう。
・謎のギャルポーズで祝われた。

10.28(火)
・社会で無条件に賞賛されているものに違和感を表明して、その当事者たちも「実はこういう部分もある」と語り出すことができたら、それは素晴らしい対話になるのだと思う。
・最近、実は心が荒んでいたのかもしれない。傷付いていたのだ、きっと。
・否定しているうちは、大した文章なんて書けない。受けた傷すらも見つめてしまうような文章でなければ、静かに滞留していく痕跡に飲み込まれてしまうだけだ。
・いつまでも出ない言葉が、身体の中でのたうち回っている。波紋は水面に小さな波を起こす。なのに、波紋すら作れない中では何も動かせないのだろうか。力学を起こせぬ苦しさが、いっそう自身を傷付ける。

10.29(水)
・今の自分にとって、どうして小説は遠い存在になってしまったのだろう。人文書やエッセイ、日記本ばかり読んでいる。以前までは小説、特に現代小説ばかりずっと読んできたのに。読めているのは、定期的に読書会をしている、アーシュラ・K・ル=グウィン『ゲド戦記』ぐらいだ。小説を通して、言葉になる前の痕跡のようなものに触れていたいという気持ちはある。おそらく、今は読みたいトピックが明確にあって、優先順位が変わってしまったのだろう。
・ブックライターや口述筆記、さらに言えば編集や校正の入った文章は、もはや著者の文体と言えるのだろうかと思わなくもない。だが、そこには必ず固有の人間の痕跡がある。自分は、その痕跡こそを文体だと思っているのだろう。

10.30(木)
・AIとのやりとりをどうしていくかを考える。どういう視点から聞くかによって、返ってくる文章が変わってくることはおもしろさでもあるが、もはや「最適なプロンプトを考案するためのプロンプト」を欲し始めているのは、それでいいのかとも思った。
・書きたい、撮りたいスイッチを押したいときに、触れておくと良いものが段々わかってきた。

10.31(金)
・新しいポッドキャストの企画を思いつく度に、八百万の神である「ポッドキャストの神様」から現金100万円が振り込まれてほしい。
・ポッドキャストとして残すことは、写真として残すことに近いのかもしれない。たとえ詳細を覚えていないとしても、その痕跡は微かな光として自身の中に存在している。文学もそうだ。誰かが書こうと思って書いたことの存在がある、それは形に残っているから存在しているのではなく、無数の残らなかったものと同等のものとして、存在していることを感じられるのが豊かだと思うのだ。
・帰宅した人が座っていた椅子の背もたれに腕をかけ、その人の素晴らしさを語る。
・翻訳者の人と話してみたい。
・「やってみたい」と「違和感がある」を共存させてやっていけたらいいなと思っている。

11.01(土)
・自分は自身を他者評価の目線であまりジャッジしないようにしているんだろう。
・長い目で見る。点ではなく線として見る。
・これから自分は呪いの言葉を吐くのかと思うと、背筋が伸びる気持ち。
・豆腐屋が「ふわふわまつり」をやるんだって。

11.02(日)
・なぜか政治や選挙の夢を見た。
・詩を読みたくなるときは、鋭く美しい言葉に打ちのめされたいときだ。そういうときは、茨木のり子の詩集を毎回読み直している。
・いつだって何かを始めても、手をつけてもいいのだ。
