定住日記

定住するのは、およそ3年ぶりだ。
今は埼玉県の本庄市という街に住んでいる。

正確には、その間にバルセロナや千葉などでシェア暮らしをしてみた時期もあったのだが、どれもトラブル続きで、数ヶ月ほどで出てしまった。「旅をしながら暮らす」という感覚でもなく、自分にとっては住む場所がないから移動生活をしているという感じであった。

だから、「自宅がある」という状態がとにかく久しぶりで、それだけで嬉しくなった。胸を張って、Googleマップの自宅欄に住所を登録できるのだ。知りもしない民衆を想像して、「みんなさ、自宅がある状態で生きているって、それはズルいことなんだよ」と話し掛ける。

初日は空っぽの家にスーツケースとカバンを持って移動してきた。玄関に大きな靴箱があるが、手持ちの靴といえば、履いてきたタイのアディダスで買ったスニーカーと、お気に入りのNAOTの革靴の2足だけだ。移動生活をしていると、荷物から真っ先に削るのは嵩張る靴であったので、これから靴をたくさん持てると気付いた。というか、これから「物を保管する」という選択肢があるのだと思うと、なんだか現実味がなかった。

しばらく床に座って作業をしていると、マットレスが届いて、寝床の確保とお尻のクッションにできることに感動した。翌日には机が届き、机の有り難みを知った。そして椅子が届いて、座れることの豊かさを知った。1週間以上経って、電子レンジと冷蔵庫、洗濯機が来たときは、食べ物の温度を自在に上げ下げできて、服を洗えることで、文明の素晴らしさを体感した。

移動生活中、たくさんの家に出入りして、「もっとこうしたら良いのに」と思うことばかりだった。だが、いざ定住してみると、生活の何もかもが慌ただしく、何を揃えてどんな生活をしていくかなんて簡単に計画できるわけもなく、「あぁ、家について何の知見もないのだなぁ」と卑下するでもなく素直に感じていた。

同時に、あらゆることを「待てるようになった」とも思う。過去の引っ越しといえば、日付をきっちり計算して手続きを滞りなく済ませて、抜け漏れのないように家具などを揃えてきた。そうしないと、新生活が始められないと思っていたのだ。でも、大概の生活は何とかなる。そもそもこの数年で思ったことは、家がなくても案外生きていけるということだったはずなのだ。

移動生活をしていたとき、「旅人だね」と言われることが度々あった。だが、果たして自分は旅をしているのかと、ずっと疑問だった。

「いや、ホームレスです」と言えば、大概の人は曖昧に笑う。笑ってもらえると思って言ったのもあるが、決してホームレスを馬鹿にするでもなく、自分に近い存在として本当にそう思うところもあるのだ。きっとそれはどうしようもなく伝わらないことなのだろうとも思う。

バルセロナで行く当てがなくなったときも、ベルリンで並ぶ列を間違えて諭されたときも、トビリシで野犬に吠えられながらスーパーへ向かうときも、「恵まれている」という自身の罪悪感を抹消する言葉を封印するならば、自分はホームレスと言えるのではないかと思うのだ。

スペインで暮らしていたとき、「居場所のなさを旅しよう(磯前順一)」という本を読んだ。おそらく学生向けというコンセプトも含まれているから、少し人を焚き付けるようなところもあったのだけど、「あぁ、自分の微細な感覚に近いものを言葉にしている人もいるんだな」と、そこに宿る静けさを感じられる喜びを発見した。

よく思うのは、どこにでも馴染めるけど、どこにでも馴染めないということだ。定住を始めて、友人たちのおかげで少しずつこの街を知っていこうとしているけれど、きっとその部分は、変えられたらいいのに、”どうしても”変えられないという部分でもある。そこを自身で認めてあげられなかったら、生きていると言えるのだろうかと思う。

定住を始めてみると、生活は永遠に整わないのだと感じる。むしろ、「生活に溺れている」という感覚が在り続ける。

真剣に生活をしていたら、仕事も創作も何もできないのではないか。むしろ、生活を疎かにするからこそ、仕事も創作もできるのだと思ったりしている。ニートのことを「自宅警備員」と呼んだりするが、自宅を警備しているならば、それは立派な仕事だと思う。自宅警備員に来てほしい。

とにかく家の居心地が良い。静かで素晴らしい。駅も近い。フォルムとか内装がかわいい。だけど、ここ数ヶ月は色々と変化があり、自身の創造的なスイッチが錆びついているように感じている。

でも、それはそうかもしれないなとも思う。自分が何かを作ったりする、たとえば撮ったり書いたりするのは、自己治療的な側面があるからだと思っている。目の前の生活をこなすこと自体で、そういった自己治療的な営みが賄えてしまっている状態なんだろう。気分の波とかではないと思う。

ただただ、今の自分は空っぽである。そういった「空虚さ」に対して、良し悪しという見方はしない。安易に環境や出来事の紐付けもしない。空っぽであることに手を広げて歓迎して、観察してみたいのだ。

果たしてこれから何が生まれてくるのだろうか。その気持ちは期待ではなく、空虚さへの微かな希望なのかもしれない。