小説を書く、ということ

小説を書く、ということは、自身とは何の関わりもないと思っていた。

私がタッチできる領域ではないと思っていたから、書こうという発想をそもそも持ち得なかったし、遠すぎるからこそ、読んでいて話の筋だけに着目して好き嫌いを気軽に言えた。

ところが、最近は小説を書くことが、自分の道と繋がっているような感覚を抱き始めた。そうなると、小説を読むことに、今までとはまた違ったような感覚が芽生えるようになった。

ただ、実際に小説を書いているわけではない。今後も書くかはわからない。小説を書くことを「やろうと思えば自分にもできる」と軽んじているわけではない。書くかどうかはどちらでもよいと思っている。

なんというか、確かに「小説を書く」という行為が、自分の中のどこかにある感覚として立ち現れてきた、ということを覚えておきたいと思ったのだった。

 

学生時代は小説ばかり読んでいた。今でも小説は読むけれど、ここ数年は人文書への興味が高まっていた。特に去年は小説がほとんど読めない状態で、人文書ばかり熱心に読んでいた。それを気にしたこともあった。

だけど、そもそも私は「Humanities」という言葉、概念に関心があるのだし、小説と人文書と読書の比率を考えるのではなくて、目の前に転がってきた本を、とことん読んでみようと思い直した。

そこにまた変化があった。ただ小説を読むだけではなく、小説を書くという行為まで含めて、興味が及んできた。

きっかけは、夜の時間を諦めたことだった。洗い流す、という行為が私にはどうも必要なのだと気付いた。夜に色々作業したり、ぐるぐる考えだしたりすると、睡眠に支障が出るし、頭の中にキャッシュが溜まっていくように、翌日以降の調子も落ちていく。だから、基本的に夜は何もできない、何も進めなくていいと決めたのだ。

そうなると、風呂に電子書籍を持ち込んで本を読む習慣があるが、その時間に関心のある話題の人文書だと頭が動きすぎてしまうので、あまり疲れないような本、つまり、積読していたような小説をゆっくり読むようになった。

罪と罰、ゲド戦記、こころ、思い出のマーニー、青天、すべて真夜中の恋人たち。積読であったり、勧められてであったり、なんとなくであったり。ジェイン・オースティンやヴァージニア・ウルフ、ガブリエル・ガルシア=マルケスなども、私の前を通りすぎていった。

 

小説とエッセイは、以前思っていたよりは、くっきりと線を引かれるようなものではないのかもしれない。

たとえば、小説に触れる機会があったとしても、小説ではなくて、思ったことを素直にエッセイとして書いてくれれば読むのに、と思うこともあった。たぶん、物語としてだけ読んでいた頃を経て、素直に思ったことを書く、という在り方の中に、「Humanities」があると思い込んでいたのだろう。

でも、わざわざ小説という形式を取って書かれた。それは、どうしてとか、意味とか、そういうものから離れた何かがあるはずではないか。

小説を書くということは、小説を通して言いたいことを言うという話ではないのは承知している。だけども、あぁこの感覚、というものであったり、このように人を見ようとする、ということであったり、どうしたってそういうものが染み出している。たとえ、自分という枠を見えないようにと思っていても、それすらも、むしろだからこそ、その人が染み出してくる。

ジャッジをせずにただ描かれ続ける、ジャッジしてませんよみたいに描かれる、ジャッジした上であぁとても好きだなぁという描かれ方をする。そういうことに出会い続ける。小説は何よりも人が書いたものであった。

これは立派に「Humanities」の延長線上であるし、小説を書くというのは、選ばれたとかそういうことではなくて、人の営みとして、誰の手にもある行為なのだと腑に落ちたのだ。

最近はそうやって小説を捉えられるようになったことを、うれしく思う。