今年の夏、用事と荷物の整理を兼ねて、久しぶりに実家のある静岡へ行った。ローカル線の車窓から見える一面の田んぼの風景は、夏でしかなかった。
ほんとにバカみたいに何もないところで、ここで生まれた自分は、初期リスポーン地点がハードすぎたのではないかと思った。あまりにも文明から遠すぎる。「あんた、よくやってるよ」と自分を労いたい。
ここに住んでいたときは、早く出てしまいたいと思っていた。だが、こうして久しぶりに行ってみると、あらゆるものが見慣れすぎていて、呆れるほど落ち着く。用事がない限り、決して戻ることのない場所。「故郷」とは、こうした微細な感覚のことを言うのだろうか。
用事を済ませ、置いたままにしていた荷物を片づけた。帰りの電車に間に合う時間にはどうにか終わった。クリームパンが四つぐらい入っている菓子パンをつまみながら、最寄り駅に電車が来るまでの四十分を待つことにした。

真っ暗で冷房のないリビングで、電気もつけずに、居心地も趣味もよくない緑のソファに腰を下ろす。ふと、「ここには音がある」と思った。その音を静かに聞いていた。
暑さが少しだけ和らいだ真夏の夜、開け放した窓から入る風がひんやりして気持ちがいい。カーテンが揺れて擦れる音。虫の声。反対方向に向かう電車の音が遠くでかすかに響く。それらの音を聞いていると、穏やかな気分になっていく。癒される、と思った。
同時に、自分はあまりにも空っぽであると思った。悲しいわけではないが、かすかなさみしさのようなものはあった。文化的な店も施設も、飲食店すらほとんどない、何の文化もないように見えるこの土地で、これほど落ち着けてしまうと、何も考えられなかったあのときの自分が、いまもここにいるのだと感じた。
あまりにも空虚だった。その空虚さに抗えるのだろうか。いや、そもそも抗う必要があるのだろうか。最初から何もなければ、何も求める必要もなくなるのだ。
だからこそ、やはり自分はここに居られないのだと思う。満たされなさを抱えたままでも、外の世界を見ていたい。もっとも、それは「求める」か「求めない」かの二択ではないのだろう。
これほど静けさのある夏夜の音を聞けるのなら、すっきりと「よし、これからもやっていこう」と思っていたかった。だが、どこまでも空っぽで、そういった気分になりそうもなかった。空っぽである自分の輪郭を、かろうじて感じ取っている。ただそのことだけを、静かに見つめ続けた。

だが、不思議と、空虚であるのに居心地の悪さはなかった。「空虚さ」と「穏やかさ」は相反するものだと思っていたが、どちらも存在していた。
むしろ、空虚さを前にして、それを潔く認められる清々しさがあった。歓待というと大げさだが、悪くない気持ちだ。以前の自分に、それができただろうか。たぶん、できなかった。
空虚さを抱えると、初めは自分に何の積み重なりもないように見えてしまう。だが、その途方もなさの前で、自分を明らかにすること、諦めること、手放すこと自体が、豊かさの階調をひろげるのだと思う。もしかすると、その土壌はすでに自分のなかで耕されていたのかもしれない。
なんだか嬉しかった。「ふつふつ」と嬉しかったのだ。たしかに今の自分には何もない。何の手立てもない。両手を広げて、「そうさ、何もないんだ」と言える感じ。自暴自棄ではない。ただ、空虚であることが、生きている実感の一部になったのだと思う。
きっとまた自宅に戻れば、手探りで懸命に生きる自分が現れてくる。空虚さは、やがて自身のなかに沈殿していくのだろう。だからこそ、変わらずにつくっていける。続けていける。ただ、それは「満たされている」という感覚とは違うのだと思う。空虚さを含んだ自分はいまも在り続けている。そして、「空虚さ」と「穏やかさ」は共存するのだと思えたことだけは、この先も抱えていくのだと思う。
