変身と呼吸

つくったものをみせる。

どうして、誰かにみせようとするのだろうか。そもそも、みてほしいのだろうか。つくったもの、考えたものを「みせる」という営みと、私は長らく距離感を掴みかねていた。

誰かにシェアしたい。きいてほしい。みてほしい。そういった気持ちがなくはない。「つくる」と「みせる」のあいだには、空白ではない何かが確かにある。だけども、その形は一向に掴めない、という状態であった。

誰にもみせなくても写真は撮るし、日々膨大な文章を残す。本来、つくるとは、みせるとは独立したものである。これは私の中の手応えとして、確かにそうだと思っている。

では、みせるは必要のないものなのだろうか。必要かどうかの話ではないのだろうか。誰にもみられなくても平気でいられるのだろうか。

確かに、みてほしさ全開のものには嫌悪感を抱く。駅の入り口で手を伸ばして渡そうとしてくるティッシュ配りのように、いりませんと思って無視をする。私が好むのは、いつだって、静かにそこに在るようなものなのだ。

そういった手触りは確かにあるのに、「つくる」と「みせる」のあいだにある空白は一向に姿を見せない。どうしてだろうか。

「手帳類図書室」という場所がある。誰にも読まれる想定をされていないであろう、さまざまな人たちの手帳やノートが許可を得て収集されていて、閲覧できるようになっている。

そこへ行く度に、私にとっての「書く」という営みは揺さぶられる。私が安住していた書くことへの信頼を、当然のように跳ね除けて洗い流していく。

あぁ、私は誰かの目に触れることを想定して、確かにつくっているのだなと気付く。そこを偽る気はない。だけど、みせる、みせる気がない、という問い方では決して見つからない領域もあるのだとそこで知る。

認めたくない、と思っても、人の営みは私の想定から染み出していき、見えない位置まであっという間に行ってしまう。私は途方に暮れる。とてもさみしいなと思う。だけどそのうち、枠を設けて捉えようとすることが違っていたのかもしれないと、諦めがつくようになる。

とぼとぼと、また少しずつ断片を拾い集めていく。誰も救ってはくれない。どうにかそちらが変わってくれと願っても、決してそうはならない。これだけ苦しんだのだから、何か変わってくれるよな、と思っても、決して叶わない。そういうことに絶望していたこともあった。

だが、救われなさが空白だとすると、そういった空白が、ただそこに在るということが、むしろちっぽけなこの身体の隅々まで満たしていくように思えた。その空白は、「つくる」と「みせる」のあいだにあるものに近いんじゃないかと思った。私はまた書いていこうと思える。諦めているからこそ、書こうと思う。変わる、変身するのは、いつだって私でしかなかったのだ。

思うのは、少しだけ外にひらく、というところが、「みせる」における、最近の発見かもしれない。

みせるということは、誰かに。いや、そうではなくて、誰かに、という部分を一旦棚上げしてみる。

誰かに、ではなくて、窓を開けて換気するイメージを持つ。最近は冬が明けて、花粉の季節も終わったので、朝になると、家中の窓をできるだけ開けるようにしている。

そうすると、家の中にちょうどよい風が通り抜けるようになる。風が吹いたり、電車や車が通ったりすると、カーテンがバサっと少しだけ音を立てながら、膨らんだり萎んだりする。外からやってきたものを柔らかく吸い込んで、中にあったものを手放して吐き出していく。その様子を見ていると、家って呼吸するんだなと思う。

だから私はそういった呼吸をしていたい。深呼吸でも息切れでもなく、カーテンが膨らんで萎んでいく不規則な速さで呼吸をしたいのだ。

その運動自体が、少し外にひらくということであり、ひらいては戻ってくる。だからこそ、誰かとのやり取りが生まれるかもしれないところに置いておこうということになるのだった。

決して、いっそ壁をなくしてしまおうとなるのではない。変身するのは私であっても、やっぱりそれはとてつもなく怖いことだ。窓を開けて風を通す、夜になったら窓を閉める。それぐらいしかできない。でも逆にいえば、身体が重くても、気分が最悪でも、窓を開けて閉めることぐらいはできる。

おそらく、私は閉じる、ということを悪いことだと思っていない。というか、良し悪しなんかじゃないと思っている。

どうしても取っておきたかった、自分の可能性を失う。諦めて手放す。苦しいに決まっている。傷付いて、窓も開けたくないと思うときもある。それでも、そういうときでも、発見できることが見つかる。見つかってしまう。

途方に暮れる。心臓の音が聞こえる。そうすると、可能性は閉じられてしまったのに、なんだか潔い気分になってくる。変身する支度ができる。窓を開ける。風を通す。変わった、変わってしまった。

何かを発見するというのは、原初的な喜びであると思う。しかも、発見の喜びは、誰からも奪われないものなのだ。少しだけ外にひらいて呼吸をしていると、そういった発見がたくさん見つかると、最近は思い始めている。